平和・命

2012年11月12日 (月)

ロップが天に還りました

昨晩、わが家の大事な家族、やんちゃウサギのロップが天に還りました。

(ウサギだから月へ還る、かなぁ)

眠るように安らかに旅立ちました。

ロップを愛してくださった皆さん、ありがとうございました。

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5歳6ヶ月。

4年半病気とつきあいながら生きてきました。

お世話になった院長先生からも、死ぬ2日前の診察で「治らない病気ばかりたくさん抱えて生きてきたね。治してあげられなくてごめんね。ロップ、よく頑張ったね。」と……。

ウサギ専門の院長先生にはロップの余命が分かっていたのですね。

夏から体調は良くなかったのですが、今月に入り容態が悪化。

どんどん体重が落ちていき、食欲も低下。

最後の3日間はモルヒネを投与したので痛みからは解放されて、

ようやく体を伸ばして寝ることができていました。

赤ちゃんと同じように抱いてシリンダーで流動食を与えていたのですが、

その餌も食べなくなりました。

寝ている顔の前に「お水をどうぞ」と言って置くと、たくさん飲んでいました。

ただ、死ぬ4時間くらい前からは水も飲まなくなり、体から魂が離れているような感じでした。

天に還る準備を始めたのでしょう。生きる気力がないのです……。

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夜11時半。

隣の部屋で主人とお互いに携帯で取ったロップの写真を見せ合っていた5~10分の間に息絶えていました。

私たちがそばにいたら、呼び止めるような言葉をかけていたことでしょう。

上手に天国に旅立ったねぇ、ロップ君。

親のそばへ引越しをして半年。

親の介護にロップの介護も加わり、かなり疲れてはいましたが、それでもロップに癒されていました。

動物は無条件の愛を与えてくれますね。

そして私たちも無条件で小さな命を愛する心を持てて本当に幸せです。

ロップは小さい頃から、恩師・エディさんから毎月1回、たくさん癒しの光を入れていただいていました。

よくアゴをさすってくださり、私は「ネコじゃないんだけどなぁ。ウサギは頭をなでられるのが好きなんですよ」と笑って言っていたのですが、エディさんにはロップの発症前の病気が分かっていたのですね。

死ぬ1週間くらい前から、調子が良いとエディさんの遺影まで行って、写真の前で寝たり顔をすり寄せたりしていました。

きっと死んだ時はエディさんが迎えに来てくれたのではないかなと思います。

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ロップには「ありがとうとゴメンネ」の気持ちでいっぱいです。

明日は火葬に送り出します。

さきほど友人が、「動物さんは飼い主の笑顔が好きだから、笑顔でバイバイしてね」と教えてくれました。

だから悲しいけど笑顔でバイバイしたいと思います。

可愛がってくれた友人やブログでロップを書いたブログを楽しみにしてくださった皆さん、本当にありがとうございました。

法友のみんな、祈ってくれてありがとう。

毎週、気功治療をしてくださった玉城さん、ありがとうございました。

貴重なお水や酵母を分けてくれたロクちゃんと島さん、ありがとうございました。

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充隆さん、夜勤明けで疲れて眠いのに、ロップを病院へ連れて行ってくれてありがとう。

ロップ、君と過ごした5年3ヶ月は本当に楽しい生活だったよ。

いつの日か天で会おうね。ありがとう。またね。

久し振りのブログなのに悲しいニュースでゴメンなさい。

また元気で楽しい出来事を書きますね。

2012年6月 5日 (火)

すべては上手くいっている

Photo 私の師匠、エディさんがご移行されて今日で1ヶ月が経った。

天に還ったというと距離感があるが、すぐそばの別の次元で地球のために働いていると思うと、やはり移行という言葉が合うのかなと思う。

5月5日の朝に亡くなられたのだが、

その日は雲ひとつない青空で新緑が今までにないくらいに輝き、

「この世はこんなにも美しいのだな」なんて、思わず立ち止まって家々の生垣に見とれていた。

その直後に連絡をもらい、いつかこの日が来ると覚悟はしていたものの、胸にポッカリ大きな穴が空いた様な気がした。

久し振りに慟哭した。

不出来な私を25年間も面倒を見てくださった。何度救ってもらったことだろう。

言葉では表せないほどの愛と恩義がある。

夜には大きな満月が昇り、煌々と地上を照らしていた。

この1ヶ月の間に2回の大きなピースイベントがあったのだが、

2回とも大きな日輪が出て、しかも日輪の周りには虹が輝いていた。

大成功のサインを見せてくれたのかなと思う。

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母も肺炎が治り退院し、認知症の薬を飲み始めた。

母も自分の人生プログラムを歩んでいるのだ。

「どうしてこんなことに」とかは、余計な想い。

かつて親友みどりちゃんの死で学んだことは、本人と神様との約束。

生き死には神様の御手にあること。

そしてどんな悲惨な状態にあろうとも、たとえ昏睡状態であろうとも、この世での塵芥(ちりあくた)を出来る限り落として、身軽になって飛び立とうとしている尊い姿なのだと。

母も同じなのだ。ただ父の気持ちを思うと切なくなる。

新宿髙島屋の今田美奈子先生の「サロン・ド・テ・ミュゼ イマダミナコ」で、私のコミュニケーション講座『心癒す言葉レッスン~上手なコミュニケーションのコツ』も始まった。

「こういう内容の講座を求めていたんです!」と駆け込むように受講を希望される声を聴くと、やはりご縁の出会いなのだなと思う。

エディさんから以前、「あなたの仕事はぐるぐる集会を巡ることではなく、外の人と会って光を渡すことだ」と言われていた。

本当にそのように道が繋がっている。

ただちゃんとご恩返しも出来ていなくて心が痛む。

今月に入り、頑張っていた気持ちが少し緩んできたようで、体に力が入らない感じがする。多分、もう少ししたら気持ちの整理もつくのかなと思う。

昨日はサックス奏者の苫米地義久さんことTOMAさんのライブのお手伝いをした。

口下手な(とご本人がおっしゃる)TOMAさんのトークサポートをして楽しいひとときだった。

光の粒子のような音色にお客様も大満足だった。

Tomaballads2120 TOMAさんも辛いとき、「すべてはうまくいっている」と言う。

2度目のガンは骨に転移していた。直腸ガンの定期健診のお蔭で見つかったそうだ。

「ガンのおかげで命が救われたよ」と笑って言う。

キャリアと実力を兼ね備えた音楽家が、「目の前の人を笑顔にしたいから」と、あえてストリートで演奏する。

だから時々、TOMAさんの姿が虚無僧に見えるのかしらん。

お客様の中に「これからお通夜に行くんです。25歳でまだ若いのに。看護師として頑張っていたのにガンで……。TOMAさんのお話とサックスが聴けて良かった。御供養になると思います」と言ってCDを購入してくださった。

こういうご縁があるのだなと胸が熱くなる。

救いの手はあるのだな。すべては上手くいっているのだな。

心痛むことや困難なことも多い人生だが、それでも、すべては上手くいっているのだ。

この1ヵ月半は忙しかったりぼんやりしたりで、多くの方に心配とご迷惑をおかけした。

温かく見守っていただいた。

ブログも書かないでゴメンなさい。

本当に私は果報者です。どうもありがとう。

May Peace Prevail on Earth

2011年7月11日 (月)

支援物資をありがとう♪

Photo 関東も東北も梅雨明けして、日本中すべてが夏本番。

もう梅雨が明けちゃったの?って言うくらい、

今年は梅雨明けが早かったですね。

節電&節水の夏ですね~。

今日も暑かったですね。お元気でお過ごしですか。

私は持つべきものは、恩師とお友達と実感する日々です。

7月1日のブログでも書かせていただきましたが、宮城県石巻市湊地区周辺へ支援物資を送っています。

早速、友人達が呼びかけに応えてくれて物資の寄付をしてくれています。

中には「直接お手伝いに行けないので、郵送料に使ってください」と義援金をくださったり、

マンションの住人の方に呼びかけて物資を集めてくださったりと支援の輪を広げてくださり、

また、「靴を担当する!」と言って、靴探しに奔走してくれたり。

みんな、本当にありがとう!

人の温かさにホロリとするばかりです。

鳥取県の森脇香苗さん、どうもありがとうございました。

直接、お礼をお伝えする術がないので、ここでお礼を言わせていただきますね。

長期の支援になりますので、ふと思い出したときにご支援いただければ嬉しいです。

被災地からは、歯ブラシ1本でもありがたいとのことです。

3.11以来、私たちの大切なものの優先順位が変りましたね。

“安全安心、命を大切に”という当たり前のことがどれだけ大切か。

何の変哲もないような日常がどれだけ幸せなことか……。

誤解を恐れずに言っちゃうと、管総理は不信任案が否決されたので、

「もう怖いものはないぞぉ」という感じで、脱原発に進んでいる気がします。

送電線分離化を言い出してから、特に管降ろしの風が強くなったように思います。

原発のストレステストは当たり前だと思うし、全て想定外のことが起こっているのだから、

「原発は安全」なんて、もう言っていられない。

利権より、命と安心な暮らし、地球環境が大事ですよね。

管総理には粘りぬいて頑張って欲しい。応援しています!

Photo_2 今日で大震災から4ヶ月。

先日の東北3県震度4の地震で「あの日を思い出した」と言って

泣いていたお母さんの顔に胸が痛みます。

壊れていないきれいなお家があるのに、避難所で暮さなければいけない福島の避難区域の住民の方々……。

少しでも事態が進展して希望の光となりますように。

祈ることしか出来ないけれど、祈りのパワーは時空を超えて形になると信じて、

心を寄り添わせています。

天に星 地に花 人に愛 全ての被災地が平安でありますように 

2011年5月31日 (火)

子どもたちの命

被災地の皆さま、すべての皆さま、お元気ですか。

今日の東京は気持ちの良い青空が広がりましたが、肌寒かったですね。

肌寒いと言えば、俳優の山本太郎さんがフクシマ原発の子ども達に対しての「20ミリシーベルト」反対デモに参加され、出演が決まっていた番組を降ろされたそうです。

5月23日に福島の父母たちとともに文科省前で失業覚悟の抗議活に参加されました。

それにより山本さんは、「これ以上、事務所に迷惑はかけられない」と事務所を辞められたそうです。

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本気で子どもたちの命を考えての行動です。

山本太郎さん「ボクの大切なもの」を是非、ご覧になってください。

http://www.youtube.com/watch?v=urowwwJrOs4

これから山本太郎さんを応援する方が、必ず増えると思います。

私ももちろん応援して行きます。がんばろうね、太郎さん!

 もうひとつ。

飯野賢治さん 「息子へ。」

原発に対して、同じ想いの人がいるのが嬉しいです。

胸を打つブログです。是非、お読みになってくださいね。本にもなったそうですよ。

http://ameblo.jp/digsurf/entry-10844660071.html

必ず良くなる、絶対大丈夫!

2011年4月18日 (月)

No51.東日本大震災~助かった命なのだから

Photo_3 東日本大震災から一ヵ月半が経とうとしています。未だ大きな余震が続き、フクシマ原発はレベル7に引き上げられ、収束には九ヶ月かかるとの発表もされました。
「復興へ向けて加速したい。でも先行きの見えない日々の中、希望を持つのが難しい」と大人たちがつぶやきます。子供たちは懸命にお手伝いをし、日中は明るく元気に過ごしていますが、夜になると暗闇の中で嗚咽しているそうです……。
小さな子が「僕が悪い子だったから地震があったんだ」「私が生き残って、妹が死んでしまった。私も津波で死ねばよかった」と自分を責める子供たちがいるそうです。なんと痛ましいことか。言葉もありません。
私の祖母は二十歳のとき、関東大震災を体験しています。そのため私は子供の頃から大地震や戦争の話を聞いて育ちました。今回は祖母の体験談で私が気づいたことをお話させていただきますね。

*祖母が体験した関東大震災
大正12年(1923年)9月1日11時58分、神奈川県相模湾北西沖を震源として発生したマグニチュード7.9の大地震。これが関東大震災です。
明治生まれの私の祖母は当時、下町のあるお宅へ奉公に出ていました。この日、奉公先の言いつけでお使いに出るために2階の部屋で着物を着替えていたら、そこへ下から突き上げるような大きな揺れがあり、逃げる間もなく木造の家はつぶれ、祖母は2階から外へ転がり落ちた。
ちょうどお昼時なので、あちこちから火の手が上がり、着の身着のまま逃げたそうです。
広大な敷地の陸軍被服廠(現在の東京都墨田区の横網公園)へ向かって逃げていたら、「あそこへ行っちゃいけない」と見知らぬ男の人から言われ、急いで方向転換し、人波に逆らうように隅田川を目指しました。
あのとき被服廠へ逃げていたら、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった巨大な火災旋風の犠牲になっていたでしょう。
ここへ避難した人だけで3万8千人が犠牲になったといいます。
隅田川へ逃げた祖母は幸運にも川に停泊していた荷船に乗せてもらうことが出来ました。このとき隅田川は両岸から火に煽られ、多くの人が川へ飛び込んだそうです。
周囲にはたくさんの荷船がいて多くの人が乗っていました。
隅田川の両岸から船に降り注ぐ火の粉を消すため、一晩中、乗り合っていた人達と川の水を船に掛け続けていたそうです。
朝になって周囲を見回してみたら、あんなにたくさんあった荷船が全部焼け落ちて、祖母の乗っていた荷船だけが延焼を免れて無事だった。隅田川は見渡す限り、亡くなった人で埋め尽くされていたそうです……。
だから祖母は生前「地震は火事が一番怖い」と言っていたのでしょう。
阪神淡路大震災でも火事で亡くなられた方が多かったのは記憶に新しいですね。
さて、船に乗って助かった祖母はかなりの強運の持ち主だったようです。というのもその船は祖母の実家の茨城県猿島郡の近くまで行く船だったのです。しかも摘んでいた荷はお米。船旅よろしく食べるものにも事欠かず、無事に実家に帰れたのだそうです。
二十歳だった祖母がたった一人で逃げ回り、いくつもの幸運に恵まれて、私に命のバトンを渡してくれたのです。

*命は受け継がれていく
この話を繰り返し聞いて育った私は地震が大嫌い(苦笑)。祖母の言いつけを守り、寝るときはベッドの足元に靴下とカーディガンなどを置いています。揺れたらまず火を消して、逃げ道である玄関や窓を開けるなどします。
関東大震災よりはるかに巨大なマグニチュードだった東日本大震災。火ではなく水での犠牲者が圧倒的に多かった……。
幼稚園の園児たちが「地震ごっこ」という遊びをするそうです。救急車や消防車のサイレンを聞くと、「地震です、逃げてください!津波が来ます、逃げてください!」と滑り台の上に登って大きな声で言うそうです。
幼子たちの心にこの大災害が刻まれているのですね。

自分が生き残ったことに罪悪感を抱いている子供、自分が津波に流されればよかったという子供……。大人ももちろんですが、子供たちの心のケアが急務です。
私は思うのです。祖母が奇跡的に関東大震災を生き延びてくれたから、私がいると。
時の流れの中で命が受け継がれ、やがて父となり母となり、祖父となり祖母となる。
「あなたの命が受け継がれ、いつの日か生まれてくる子供がいるんだよ」と言ってあげたい。「あなたは生きていていいいんだよ。そのままでいいんだよ」と。
夜になると暗闇の中で嗚咽している子供を充分泣かせてあげて、心の内を吐き出させてあげたい。孤児となった子供を抱きしめてあげたい。
人のぬくもり、温かい言葉、聴いてあげる耳。これらがどれだけ大切なことか。

思いやること、分かち合うこと、助け合うことを身をもって知った子供たちは、子供らしい時間の季節を早めに卒業し、大人の心が同居し始めていることでしょう。
強く優しい若者になっていくでしょう。このような子供たちがいるから、日本の未来は大丈夫だなと思います。

衣食がまだ足りないながらも何とか行き渡り、具体的な生活のめどと心のケアが必要な時が来ました。
私も傾聴や読み聞かせで動き始めます。ご希望がありましたら、是非、ご連絡下さい。すぐにお伺いします。手を取り合って、ラブ&シェアしていきましょう。必ず良くなる、絶対大丈夫!

2010年8月10日 (火)

No37.本を書き終えて思うこと~いつか天に還るのだから……

Photo_3 今年3月30日に初めてのエッセイ集「Pure heart ~桜の木が教えてくれたこと」を上梓して早や4ヵ月半。原稿を入稿したのが2月初めでしたから、書き終えて6ヶ月になります。
わずか半年前のことなのに、まるで2~3年前のことのように思えます。
しかも初版発行から2ヶ月で第2版を増刷できたという奇跡のような体験をさせていただきました。書店では販売していない自費出版にもかかわらず、クチコミで多くの方からご注文をいただき、驚くとともに毎日、発送作業をしています。
今回はようやくこの半年を振り返る気持ちの余裕が出来たので、本を書き終わった今の心境をお話させていただこうと思います。
本については「書籍&講演依頼」のページをご覧になってくださいね。

*ハードスケジュールの中で書いた原稿
私が体験したことを本に書くことで、「どなたかのお役に立てるならば」と出版を決意したのが昨年の10月初旬。お世話になっている「たまサロン」オーナー・藤井惇子さん、つきのテンポの片岡慎介さん、佐和貫鈴さんにご相談して、具体的なイメージを膨らませていきました。
12月に制作を手伝ってくれる友人たちと大まかなスケジュールを組み、1月中旬から書き始めました。
すでにこの「ピュアハート」で書いた原稿に加筆し、新たに書下ろしを加えた形なので、わりとスムーズに筆が進んでいったように思います。
ちょうど原稿を書いていたこの時期は、別の重要な課題もこなしている最中で、今、振り返っても、いつ寝て、何を食べて、どう過ごしていたかも記憶にないくらい、ひたすら書いて、ひたすら課題をこなして、フラフラになりながら一日が終えていました。
はからずも原稿と課題を同時進行で行うという超ハードスケジュールを敢行することになったでした。
原稿の入稿前日である2月1日に恩人である片岡慎介さんが急逝され、お通夜の前日の2月6日に講師の課題を達成しました。この日は片岡さんの62歳のお誕生日だったのです……。私にはこの流れが偶然とは思えませんでした。

原稿を入稿した後は制作メンバーである中野洋子さん、石川礼子さん、佐藤智恵子さんがそれぞれに編集、デザイン、進行調整、印刷手配、校正etcと作業を開始。
3月16日の人間科学研究所・米田晃先生の「21世紀創造塾」で本をテーマにした講演が決まっていたので、先行発売のためにもなんとか前日に刷り上げてもらいました。日程的にかなりの強行軍で、講演に間に合ったのは制作メンバーが頑張ってくれたお蔭です。
発売と同時に早速、クチコミで広がり始め、全国各地から「感動した!」という内容の感想をいただき、「友人にプレゼントしたいので」というリピーターの方が多くなっていったのです。
初版発行一週間にして、すでに本が私の手を離れ独り歩きを始めていると実感したのです。

*私もいつか死ぬ……後悔しないために決めたこと
書き終えてすぐに思ったことは、宿題をひとつやり終えた気がしたこと。それと自分でも意識していなかったのですが、本の内容が「生と死がワンセットになっていた」ことに気がつきました。全く意識しないで書いていたのです。
本が出来上がって「愛のある言葉が自分を癒し、生きる力になる」というキャッチコピーが生まれたのでした。

私は「肉体の命が尽き、いつか天に還るのだ。だから死ぬとき、なるべく後悔しないようにしたい」という気持ちが強くなっていったのでした。
「あのとき、もっと優しくすれば良かった。もっと一生懸命やって上げれば良かった。出し惜しみするんじゃなかった。損得を考えるんじゃなかった」などなど。
どれだけ自分が愛深くあったか……。愛の成績表しか天に持って還れないことの自覚が深まったのです。
元々、目の不自由な方のための朗読ボランティアをしたり、司会の仕事でも平和に関することは無償か交通費程度ですることが多かったのですが、ボランティアであろうとギャラを頂くお仕事であろうと、「ここまでしかやらない。自分の徳にならないことはやらない」という線引きがきれいに無くなっていったのです(元々、そういう思いは少なかったのですが)。
「いつかこの肉体を脱ぎ天に還るのだから、労を惜しまず一生懸命やって、愛のみの気持ちで関わろう、相手が喜ぶことをしてあげよう、自分の持てる力を全て出して協力しよう」と気持ちに、観念ではなく、現実にシフトしたのでした。
気力、体力、時間は以前と比べものにならないくらい使い、疲れもしますが、その分、ギフトも多いのです。
たとえそこから金銭を頂かなくても、必要なものはめぐり巡って他から入ってくるという体験が増えてきました。
さらには応援してくれる人が沢山増えてきて、愛をいただくことが断然、多くのなったのです。
「手放したら入ってくる」というのは本当だったのです。

*無償の愛を差し出す
以前の私は“相手から良く思われたくて”相手の言いなりで仕事を引き受けたりすることがありました。恥ずかしいことに出し惜しみすることも多かったのです。そうするとズルい人も寄ってくる……引き寄せてしまうのですね。
今でも仕事の金額を言うのが少々苦手なところがありますが、ちゃんと価値を分かった方が声を掛けてくださいます。やはり自分の意識の持ちようが大切だと実感したのです。
私も生きていくためにお金は必要ですし、仕事は仕事ですから正当に評価していただいてお代を頂かなければならないし、極端な価格破壊をしてもいけない……。とは言うものの、価値観が変わってきたのはどうしようもないのです。
ともに喜びあって命が交流し、調和した中で仕事や人間関係が築かれていくと、思っていた以上に良いものが出来るし、感動を分かち合えるし、なにより魂レベルで素晴らしい絆が結ばれていくのを知ったのです。
サトルエネルギー学会副理事長・村田さんが先日、「応援すると応援してもらえる」と言ってくださいました。けだし名言です。無償の愛を差し出すとそれは必ず自分に返ってくるのですね。
ただし、これは私の体験であり感覚なので、人に押し付けるものでもなく、共感していただこうとも思ってはいないのです。それぞれその人なりのやり方や道があるのです。

私は今、こだわりや囚われが取れてきて、どんどん自由な気持ちになってきています。なんとなく、新しい段階に入ったような感じがしています。
これからどんな景色を見ていくのか、人との出逢いがあるのか、果たす役目があるのか……。
本を書き終えてこの半年の間に、講師を拝命し、サトルエネルギー学会の理事を拝命し、NHK文化センター青山教室で連続講座「ことばレッスン~上手なコミュニケーション」の先生になり、憧れの洋菓子研究家・今田美奈子先生のサロンで講演をさせていただき、白光誌の会員訪問インタビューを受けたりと思ってもいなかったことが展開しました。

押しなべて良いこともそうではないこともフィフティ・フィフティでやって来ますが、それらに丁寧に対応し、心を自由に伸びやかにして、日々、楽しみながら感謝してこれからも進んでいこうと思います。
幸せな気持ちを数えるのが上手でありたいと思います。
この世での生が終わる瞬間、「愛の心で、全力でやるだけやったよ」と胸を張って、あちらの世界で言えるように。
どなたかのお役に立てればという思いで書いた本でしたが、書き終わってみたら私自身が成長し、多くの気づきを得ていました。大変なこともあったけれど、書いて良かったなと思いました。
本を読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

2009年2月25日 (水)

No.6 平和を祈る声でありたいと……

ながーい自己紹介もなんと6回目になりました。
前回までお読みいただいて、一貫してあるのは、地球への想いと平和だとご理解いただけたら光栄です。
そこで今回はどうしてこういう志向(思考)になったのかについて、お話させていただきますね。

*子供の頃から*

Photo_61 皆さんはどんなとき平和を意識しますか?
またいつぐらいから平和や幸せについて考えるようになったでしょう。
私は幼いころからぼんやりとですが、平和のことを心の隅で考えている子供だったように思います。

それは祖母から戦争体験や関東大震災で命からがら生き延びた話を日常的に聞いていたからかもしれません。
街角に張ってあった「世界人類が平和でありますように」のステッカーを見て軽くうなずいたり、「ベトナム戦争が早く終わればいいのに」と思ったり……。
毎年夏になるとニュースで流れる長崎・浦上天主堂での鎮魂ミサを見ては、レースのカーテンをマリアベールのようにしてお祈りの真似事をしたりと、そんな一面を持った子供でした。

*神様と平和*

なんとなく神様と平和というのがワンセットだったんですね。
神社や教会にもよく遊びに行って、小学校の高学年からは日曜学校に通い、イエス様やマリア様が大好きでした。
教会の雰囲気そのものが好きだったのでしょう。
ただ、新興宗教にはかなり厳しい目を向けている子供でした。
というもの、ガーデニングが好きな祖母に庭先で声をかけて家に上がりこみ、様々な宗教の勧誘をするおば様方がたくさんいたのです。(親戚にも大きな組織の幹部がいたり)
この方たちはみな、優しげで、一生懸命自分の宗教がどれだけ素晴らしいか話していくのですが、日が経つにつれ、祖母に相談をし始めるのです。
泣きながら自分の苦しみや悲しみを祖母に聞いてもらっている……。奇妙な光景として目に映りました。
「この人たちは自分の信じている神様に救ってもらっていないの?なぜ、こんなうちのばあさん(ゴメン!)に慰めてもらって、励まされているの?祈ればご利益があり、幸せになれるとすすめているのに、どうしてあなたが幸せじゃないの?」と。
祖母は特別な霊能力があったり、カリスマ性のある人間ではありませんでした。芯の強い気骨ある明治女です。
「あんたがしっかりしなくてどうするの!」と勧誘に来ていた女性たちを叱り飛ばしていたものでした。もちろんどこにも入会などしません(笑)。
(ただ祖母は年に何回か高野山や白山に参拝の旅に出ていました)
こういう光景を見て育った私は、「絶対、怪しげな宗教にはだまされない!」と心に誓ったものでした。
まだ子供だった私は、この世の中を生きていくことの切なさが分かっていなかったのです……。

*霊性の目覚め*

Photo_62 「神様は人間を愛しているというならば、どうして戦争を止めてくれなかったのだろう」。
この質問に誰も答えてはくれませんでした。
通っていた日曜学校のシスターも……。ひどくがっかりしたことを覚えています。
そうして私はいつの間にか教会に行かなくなり、心の中だけで、何かあるときは祈り、ちゃっかり「神頼み」だけする大人になっていきました。

そんなあるとき「神と人間」(五井昌久著)を読み、「知りたかったことが全部書いてある!自分の心の平和と幸せは、世界の平和とイコールだったんだ」と気がつきました。
ちょうどシャーリー・マクレーンやバシャ―ルのメッセージが広がり、精神世界に関心を持ち始めたときでした。
また長年抱えていたトラウマを手放し、言葉の大切さにも目覚めた時期でもありました。
すべてのタイミングが合ったんですね。
もう自分探しではなく、自分磨きになっていったのです。

そこからネガティブな思考をポジティブに、温かな愛のある言葉に意識を注ぎ、言霊として言葉を発し、
「一人ひとりの心の中が平和になれば世界は平和になる。世界が平和じゃないと個人の幸せは成立しない」という、ブレない柱を心に立てていったのです。
すべては必然であり、どうしてこの時代に生まれ、このような生い立ちと経験をしてきたのか……。
おのずと答えは自分の内にあったのです。
子供のときどうしても知りたくて、シスターをはじめ、回りの大人たちに聞いた「神様は人間を愛しているというならば、どうして戦争を止めてくれなかったの」という問いの答えも自分の内にあったのでした。
たくさんの経験での痛みを慈悲と愛に昇華していったとき…、求めて求めて光に手を限りなく伸ばし心の奥を見つめていったとき……、おのずと答えは自分の内奥にあると。

*私たちは光そのもの*

Photo_63  誰もが平和を願っています。戦争のない世界になって、美しい地球であってほしいと誰もが願います。
そして戦争だけでなく、地球の生命エネルギー・環境そのものが壊れかけている……。
大いなる自然の恵みを受けて生かされている私たちの命。
私たち一人ひとりが地球の細胞であると考えたならば、どれだけ地球を蝕んでいるのでしょう。
すべての命が循環し、つながっていることを感じ取っていけたなら、大切にしたいことの優先順位はきっと変わってくるはず。

あえて戦争について触れるならば、善悪や数の論理だけではなく、戦禍は双方に痛みが生じます。
今なお、戦地に赴き、立ち直れないほどの心の傷を負って帰国した兵士たち……。 その犠牲となった方々……。傷つき、親を亡くした子供たち……。テロや内戦……。
私たちはたとえ大儀のためであれ、人を殺すために生まれてきたのではないのです。
人から殺されるために生まれてきたのでもないのです。 手は銃を持つためではなく、相手の頬を撫で、ともに手をつなぎ、美しい世の中を作るためのもの。
口は人を攻撃するためではなく、愛の言葉を語るためのものです。
私たち人間のからだ全てが、愛を表現するためにあると思うのです。
ですから私たちは最大限、そのために体を使うようになっていけたらと思うのです。

人間は神の子といわれますね。私もいくつかの不思議な体験を経て、私たち人間の本質は神そのもの、光そのものだと思うのです。
ならばこの身体の上に神の姿を現わしたいと切に願います。
そして私自身、地球の平和とすべての人類の幸せと、すべての命あるものが健やかであるよう祈れる声でありたいと……。
             

2009年1月26日 (月)

No.5 心の奥から湧き上がる思いを形に~イベントプロデュース その2

ながーい自己紹介も5回目になりました。

今まで手がけたプロデュースのなかでも、特に思い入れが深く、多くの方の力をいただいて実現したイベントのお話をさせていただきますね。

ただひたすらに、「どうしても、この場所で、このことを、この日に、伝えたい!」と心の中で沸き起こった強い思い……。
お金も人脈もなく、プロデュースの経験も浅い私が、みんなと力を合わせて大成功を収めたストーリーです。

Photo_64 「同時多発テロから一年。追悼と平和への祈り~ピースオンアースinサンシャインシティ」 

これはダイレクトに平和を訴えた追悼イベントです。
2002年9月11日、池袋サンシャインシティ噴水広場で開催しました。自らスポンサーを探し、アーティストの出演交渉、企画構成etc。大勢のハートフルな仲間に支えられ実現したものです。

*きっかけ*

この前年まで「サンシャイン・プラネタリウム」でヒーリングンミュージック番組のナビゲーターをしていた私は、この場所に入るとなぜかネガティブな感情の波に揺さぶられるのでした。そして同時多発テロの起こる一ヶ月前からその揺さぶりがさらに大きくなり、自分でもどうしていいか分からないほどでした。

様々なトラブルや感情の行き違いなど重なり、その年の暮れに担当を降りましたが、そのあとに「ここは巣鴨プリズンの跡地なんだよ」と教えられました。やっぱりなぁというのが実感でした。充分にご供養もお払いもされてきた場所ですが、感応してしまった自分がいる。しかもテロリストたちの思いにも感応してしまった自分がいる……。
思いはエネルギーで、時空を超え、同じ波長と共鳴します。

「テロリストたちのネガティブな思いに賛同してしまった」というショック。だからアメリカが受けた惨劇は他人事ではない。自分の出したネガティブな思いも加わっていたと。

そういう“種”が自分の中にあったから同じような波に感応する……。考えすぎと言われればそれまでですが、このことから立ち直るのに半年ほどかかってしまいました。

やがて不毛のような心に「あの場所で、平和のイベントを開催しよう。祈りの光をみんなで降ろそう。9.11で犠牲になられたすべての方の追悼をさせていただこう」との想いが湧き上がったのです。
アメリカだけではなく、報復による犠牲となったアフガニスタンの方も含めて慰霊をさせていただこうと……。そして「これからの9.11に、こんなに平和な世界になりました」と犠牲になられた方々に報告していける日の第一歩としたかったのです。

*奇跡が起こった*

その強い思いを回りの人たちに話していったら、どんどんと協力の申し出を頂き、あっという間にプロジェクトチームが誕生したのです。これは最初に話を聞いてくれて、迅速に動いてくださった島弘子さんのお人柄と人脈のお陰としかいいようがありません。

それからは自分ひとりでは開けることのできない扉が開いていくような奇跡が、次々と起こっていったのです。
本当に人類のため、平和のために無心で事に当たったとき、天が応援してくれるという体験でした。必要としているときに必要な人が、物が、お金が、アイディアが目の前に現れたのです。

といっても、動くのはまずリーダーである自分です。切なさ、孤独、苦悩もたくさん味わいましたが、それを上回る喜びがありました。だからこそたくさんのことを学び、精神的にも成長させていただいたのだと思います。

「この指とまれ!」と言ってから3ヶ月で本番を迎えるなんて、イベントの規模の大きさからいっても、まさにミラクルでした。
 

Photo_66 *そして迎えた当日*

朝早くから、100人近い方々がボランティアとして集まってくださり、黙々と会場の椅子を並べ、国旗をセッティングし、各コーナーを作り、リハをして、という光景を見て、ありがたくて涙が出ました。

そして、本番。東洋大学吹奏楽研究部の皆さんによるファンファーレでステージが始まりました。

始めに、後援の(財)五井平和財団理事長 西園寺裕夫様より「犠牲者への哀悼の意を表すると共にあの事件を人類への警鐘と受け止め、これからの平和を考える意義深い一日になることを期待する」というご挨拶をいただきました。

続いてアメリカとアフガニスタンの国旗をそれぞれの国の方に持っていただき、この二つの国旗を寄り添って掲げ、全員で黙祷を捧げました。この模様はAP通信、共同通信を通して世界に配信されました。

コンサートの部では、真砂秀朗さん、HIROさん、苫米地義久さん、金大偉さん、巨勢典子さん、岡田静さん、大嶋恵さんがそれぞれの平和への祈りを音に託してくださいました。

またウォンウィン・ツァンさん、龍村仁監督、湯川れい子さんからもメッセージをいただき、参加者全員の想いがひとつに結ばれていきました。

パネルディスカッションでは、「水からの伝言」の著者・江本勝先生、後援の五井平和財団理事長・西園寺裕夫さん、アフガニスタン人でアフガンと日本の窓口・日本国際親善厚生財団(JIFF)のアマディヤール・ジャファールさんをお迎えして、「一人一人の幸せと地球の平和、そして人類の未来」をテーマに語り合いました。

 プログラム最後は「ワールド ピース フラッグセレモニー」。
国連登録、世界190カ国(その当時)の国旗を掲げ、一国づつ国名を読み上げ参加者がフラッグを振り、会場の参加者とともに平和を祈りました。茶髪のお兄さんやコギャル、小さなお子さんがパパと一緒にフラッグを振ってくれたり……。思い出すたびに胸が熱くなります。

またCDやオリジナルグッズを作り、純益はJIFFを通じてアフガニスタンの「母と子供を支援する会」に寄付が出来て、みんなの気持ちを生かせたのです。協賛してくださったサンシャインシティ様、三越様、後援の五井平和財団様のお力添えをいただき、出演してくださった皆様と多くのボランティアスタッフのお陰で大成功でした。

 Photo_65 この追悼イベントは犠牲となられた方へ「悲しみや憎悪の連鎖を止めて、平和な世の中を作ります」という会場中で沸き起こった心の誓いとなったのです。

*体験は貴重な宝物*

終わってから一ヶ月ほどクロージング作業が続きました。このイベント期間中に新番組をふたつ担当し、普段では考えられないようなエネルギーの使い方をしたようです(笑)。
しばらくは何も力が入らず……でしたが、自分の中の軸をずらさずピュアな強い心を持ち続ければ、何でも出来るんだなと実感。

こうして制作サイドのことを経験すると、番組だけでなく、イベントの主催者のご苦労も分かるようになるんですね。

ひとりひとりのスタッフさんの大変さもよく分かり、やってくださっている事を当たり前と思って受け止めちゃいけない、自分の立場だけで物を言っちゃいけないなと深く反省!

作り上げる喜びと、その同量の困難も知った今、どんなお仕事の現場でも感謝の気持ちを深く持てるようになりました。

立場を変えて経験してみるというのは、本当に大切なこと。私は自分の中の愛が深くなり、一回り大人にしていただいた気がします。

そして自分の想いに共鳴してサポートしてくださった皆さんの無償の愛……。これがなによりも大切な宝物となったのでした。

来たる2011年9月11日に何らかの形で「その後の10年、この先の地球の平和」を考えるイベントをみんなで開催できたらと思っています。